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16 学校評価と学校広報との関係 [学校広報の理論]

ステークホルダを意識した学校評価と学校広報は、表裏一体の関係にあります。大きな理由は3つ、① どちらも学校への共通理解を深め、連携協力を促すという目標を共有していること、② 学校評価の結果を学校の責任として公表するアカウンタビリティ(説明責任)のため、③ 外部アンケート等を実施するにあたって、正確な評価と意義ある意見聴取を求めるには、学校から詳細な情報提供を必要とするためです。

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15 ステークホルダの対学校姿勢モデル [学校広報の理論]

学校の社会的評価・評判形成において、ステークホルダが学校に対して取る姿勢は、いくつかのグループに分類して捉えることができます。これは広報活動の方針を見極める上でも役に立ちます。

例えば、会議で意見聴取・意志決定をする場面では、俗に「声の大きな人の意見が通りやすい」とか「場の空気を読む」といった事が経験的に語られます。大雑把な言い方をすれば、集団における意思形成の場面では、次のような特徴を捉えることが出来るでしょう。

  • 大多数は沈黙を保ち、直接的な意見表明をする機会はあまりない
  • 強い意見表明をする人は全体の割合からみれば少数である
  • 個々人の意見や判断は少数の強い意見表明に影響される

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14 教職員の倫理と学校広報 [学校広報の理論]

学校広報の目的が正しく理解される限り、教職員の職業倫理との間に矛盾は生じません。
日々の誠実な積み重ねが基礎にあるからこそ、本来の教育成果を社会に正しく伝え、認知してもらう活動が重要な意味を持ちます。

いろいろなところでお話しする機会があるたび、学校広報とは古くて新しい言葉です、と私は述べています。解説の冒頭でも述べたように、広報とはステークホルダとの良好な関係維持に主眼があります。しかしながら、日本における「広報」の言葉には、すでにステレオタイプのイメージが定着しているので、広報=宣伝と早合点されることで、「そのようなものを学校で扱うことはナンセンスだ」という批判がかならず起こります。

批判と誤解の最たるものは、「学校選択制でもないのに、広報をしたところで児童生徒が増える訳ではない」というものですが、これに対する答えは、また別の機会に譲りましょう。

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13 学校の現実を構成する2つのループモデル [学校広報の理論]

09 メディアが現実を構成する」では、一般社会人にとっての学校の現実が、もはや、マスメディアによって構成されているという事を述べました。この記事では、現状と改善目標を理解しやすくするために、「学校の現実を構成する2つのループモデル」を紹介します。

私がこのモデルを考えた背景は、次のような疑問でした。大多数の学校は、いまだ学校サイトをほったらかしにしているのに、なぜ、一部の学校はここ数年で熱心に情報を更新するようになったのか。
少数ではあるものの、学校自身が目的を持って意欲的に取り組んでいる事例に繰り返し触れ、関係者へのインタビューで学んだのは、情報提供に対する価値観が決定的に変化しているということでした。その対比は、(例えは悪いのですが)イソップ寓話の「北風と太陽」のようでもあり、車のギアが後退から前進に切り替わるような、強い印象を持ったのです。

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12 学校不信と保護者不信 [学校広報の理論]

社会の学校不信と、学校の保護者不信は、立場こそ180度違うとはいえ、最初はささいなボタンの掛け違いが、次第に深刻化したものと言えます。これらのいわば相互不信は、互いに被害者意識と敵意があるので、問題解決は容易でありません。

そもそも、この問題の発端は、「保護者・地域への情報提供について、学校側は十分行っていると考え、保護者・地域はそれでは足りないと考える」ところにすれ違いがあります。
学校広報をあまり意識していない学校側の言い分としては、

  • 月一回学校だよりを出しているから情報としては十分
  • 保護者から不満を表明されたことがないから
  • 保護者や地域はいつでも協力的だから

というものが多いのですが、保護者や地域の側が本当にそう思っているとは限りません(実際は、保護者向けの外部アンケート結果が散々で、びっくりする学校も多いわけです)。

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11 マスメディアと学校広報との違い [学校広報の理論]

マスメディアの影響力には絶大なものがあります。手作りの学校広報では、どう考えたところで太刀打ちできそうにもありません。しかし、マスメディアと学校広報とでは、対象も違えば、モデルも全く違います。学校広報には、独自の「らしさ」があるのであって、ことさらにマスメディアの真似をしたり、背伸びをしても、まったく意味はありません。

マスメディアは、広告産業と一体となることで、巨額の収益を上げる構造を持っています。例えば、民放テレビ局の場合、時間によって値段の異なる番組枠を、広告主が買って、CMを放映する事で経営が成り立つ訳ですが、メディアリテラシーの教科書では、この関係を「多くの番組視聴者に値段を付けて広告主に売ること」と捉えます。テレビ局にとっての商品とは、番組そのものというより、むしろ番組という餌に群がる我々なのです。

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10 教育荒廃論が生まれるトリック [学校広報の理論]

09の記事では、一般社会人にとっての「学校の現実」が、マスメディア報道によって、なかばねつ造されたものだ、という事を述べました。このことについて、もう少し補足説明しておきたいと思います。

教育批判や学校不信の厄介なところは、「年を追うごとに悪くなっている」という荒廃論が、人々の危機感を余計に煽ることにあります。この問題について興味深い考察しているのが、教育社会学者の広田照幸です。広田は著書「教育不信と教育依存の時代」のなかで、マスメディアによって少数のケースが安易に一般化されていることを指摘しています。下図は、同じく広田の「日本人のしつけは衰退したか」から引用されたものですが、これによって、かつて自らが体験した身近な事例と、現在マスコミが報道する極端な事例が比較されることで、「今は昔に比べてひどい、逆に昔は良かった」と考えがちであるとしています。

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図:身近ないじめとマスコミ報道の事例
広田照幸(1999)「日本人のしつけは衰退したか」講談社現代新書p177より

 

広田の説明には2つポイントがあります。これを筆者の言葉で少し丁寧に解説しましょう。

1つめは、少数のケースが一般化される「非日常の日常化」です。
マスメディアは、大衆が注目するような非日常を好んでニュースとして報じます。一方で、平凡な日常はニュースにならないので、ニュースソースからは脱落してしまいます。この極端な例が地震等の被災地報道です。地震報道では、甚大な被害が生じた場所のみがピックアップして伝えられ、逆に無事な地域の情報が脱落してしまうので、たとえ、実際の被災地が地域のごく一部だけでも、一般の視聴者・読者は、地域全体に被害が及んでいると思いがちです。
また、マスメディアは、一度スクープされた大きな出来事で世間が動揺すると、類似の事例をかき集めて連日報道する傾向があります。全国に複数の類似ケースがあれば、それが単なる偶然や例外ではなく、もっと根が深い(企業体質や社会的)問題であると、視聴者・読者に印象づけることができるからです。これは、学校のいじめ報道や、航空会社の整備不良や操縦ミス報道にその例をみることができます。

2つめは、視聴者・読者の「主観的なギャップによる錯覚」です。
これは学校教育に限った話ですが、学校に関してマスメディアによる「非日常の日常化」が起こると、一般の社会人には、主観的なギャップによる錯覚が生じやすくなります。
社会人は、みな学校時代を経験して大人になった訳ですが、広田の図にもあるように、過去、自分の学校時代に起こった出来事の大半は平凡な日常で、極端な事例に遭遇する機会は滅多にありません。これに対して、マスメディアによって「非日常の日常化」が起こると、現在は、学校で不祥事や事件が日々生じているように印象づけます。この主観のギャップが著しくなるほど、「昔の教育はちゃんとしていたのに、今の教育はどうなってしまったのか」という錯覚を生じます。これこそ、教育荒廃論がもっともらしく聞こえるトリックなのです。

先に紹介した広田の著書では、この事例以外にも、なぜ社会的な教育不信が起こるのか、様々な事象とそのカラクリについて丁寧に論じています。学校広報の知識を深める意味でも非常に参考になるでしょう。

教育不信と教育依存の時代

教育不信と教育依存の時代

  • 作者: 広田 照幸
  • 出版社/メーカー: 紀伊國屋書店
  • 発売日: 2005/03
  • メディア: 単行本

日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))

日本人のしつけは衰退したか―「教育する家族」のゆくえ (講談社現代新書 (1448))

  • 作者: 広田 照幸
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1999/04
  • メディア: 新書

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09 メディアが現実を構成する [学校広報の理論]

「メディアが現実を構成する」この衝撃的な言葉は、メディアの影響力の強さを端的に表しています。

この言葉は、オンタリオ州教育省(1989 FCT訳 1992)によるメディアリテラシーの基礎概念のひとつです。人々が現実であると思っている事柄の多くは、実はメディアから得られたものであり、なおかつ、メディアは現実そのままの描写ではなく、特定の筋書き(意図や結論)をもって、あらかじめ編集・脚色されたものである、ということを述べています。

  • 学校現場の地道な仕事が、なぜ世間には認められにくいのか。
  • なぜ教育批判や学校不信がこれまでに盛り上がりをみせるのか。

学校関係者にとってみると、真面目に日々の仕事をこなしているのに、これほどに(いわれのない)批判を受けるのは理不尽な事に違いありません。しかし、学校関係者の抱く「学校の現実」と、学校外部の一般社会人が抱く「学校の現実」とは、もともと大きな違いがあるということに、私たちは気づかねばなりません。

学校関係者にとっての「学校の現実」とは、職場で経験するリアリティそのものです。たいがいは同じ日常の繰り返しが季節とともに淡々と営まれ、一年が過ぎてゆきます。いうまでもなく、教育とはドラマティックなものではなく、平凡な日々の積み重ねによって達成されるものだからです。右に左に大騒ぎするような出来事は滅多に起こるものではありません。

しかし、学校外部の一般社会人にとって「学校の現実」とは、ニュース報道で連日扱われる教育問題、教員の不祥事、事件や事故といった「目を惹くような非日常的な出来事」の集積です。滅多に起こらないような出来事も全国から集めれば、毎日のように各地で起こっているかのような印象を視聴者に与えます。つまり、教育に対する危機感や荒廃論のたぐいは、学校の非日常ばかりが濃縮されたもので、なかばマスメディアによってねつ造されたものと言えます。

これらを簡単に表すと次の通りになります。

  • 学校関係者の「学校の現実」 = 学校現場で起こっていること > マスメディア報道
  • 一般社会人の「学校の現実」 = マスメディア報道 > 学校現場で起こっていること

「現実」とは、受け取る情報チャネルの情報量の差によって実質決まるわけです。

このように考えれば、一般の社会人に対して、マスメディア報道に勝る情報を学校側が提供すれば、「学校の現実」が正しく理解され、理不尽な教育批判や学校不信を相当減らすことができるということになります。

残念ながら大半の人は、もはや、絶大な影響力をもつマスメディアに対抗できる方法など、自分たちは持っていない、あるいは、そんな事はもはや教職員の仕事ではない、早々と思い込んでしまいます。しかし、この考えは正しくありません。学校広報とは、学校のステークホルダに対して「学校の現実」を伝えるためのパワフルな手段であり、なおかつ、現場の教職員であるからこそ、誠実で説得力のある現実の情報を伝えることができます。

なぜ、そのように考えることが可能なのか、次回以降の記事で詳しく述べましょう。

[参考文献]

メディア・リテラシーを学ぶ人のために

メディア・リテラシーを学ぶ人のために

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: 世界思想社
  • 発売日: 1997/06
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


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08 二種類の信頼関係 [学校広報の理論]

学校とステークホルダとの信頼関係には、思い込みの関係と、現実認識に基づく関係の二種類があります。学校広報が形成を目指すのは、「現実認識に基づく信頼関係」です。

思い込みの信頼関係は、見せかけの信頼関係であり、具体性をもちません。トラブルや対立が起きない限り、ほとんど問題は生じませんが、一度思い込みが崩れて、現実が暴露されるような事態が生じれば、ステークホルダ側は信頼の裏返しとして失望と裏切られ感で満たされてしまい、関係を修復するのには長い年月を要します。

思い込みの信頼関係は、面倒を避けたい学校側の意向と、面倒に立ち入りたくない(お任せ)にしたいステークホルダ側との共犯によって生じます。
特に、学校は立場的に保護者・地域と対等でないので、信頼関係を疎外する要因に鈍感になりがちです。たとえば、十分な意思疎通の実績がなくても、「ウチの地域は学校との信頼関係があるから大丈夫」と思ってしまいます。アンケートなどで表面的には、そこそこの満足と信頼が得られているように見えても、保護者・地域側では、小さな疑念や不満がくすぶっていることは少なくありません。
一方、ステークホルダ側の思い込みは、学校に対する理想を肥大化させることで生じます。「学校かくあるべき」との意識が強いほど、思い込みが崩れたときの落胆は大きなものになるでしょう。

学校には成長過程の様々な児童生徒が在籍する以上、どんなに注意を払っても、事故・トラブル・課題のたぐいを完全に防ぐことはできません。ただ、そのようなネガティブな事象が原因で、思い込みの信頼関係が崩れた場合、事象が発生した事自体に批判が集中しやすいので、学校側はこのような情報をあまり表に出したがらない傾向があります。

学校にとって最も建設的な方策とは、思い込みの信頼関係を維持するために、ネガティブな事象を封じ込めることではなく、むしろ、現実認識を共有してステークホルダとの関係を維持しつつ、円滑な問題解決を図ることにあります(なにごとも言うは易く、行うは難しですが)。
現実認識に基づく信頼関係とは、つねに具体的な事物に結びついて発展するものです。したがって、地に足の着いた信頼関係を築くためには、ステークホルダに対して、誠実に、かつ、ある程度以上の頻度を保って学校の情報を伝えることが必要です。


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07 学校広報の目的段階 [学校広報の理論]

学校広報の目的とは、段階別に宣伝・信頼・協働の3つがあります。

01で示したように、学校広報の概念は包括的ですが、学校側の認識や周囲の事情に応じて、具体的な目的段階は主に以下の3点に分けられます。

  1. 宣伝
    学校選択制や児童生徒募集に伴って生じる「宣伝」は、学校広報としては一番低いレベルの目的です。Doyl M. Bortnerはこれを販促主義(Salesmanship)といって、本来の学校広報のコンセプトとは相容れないと述べています。
    宣伝には、都合の良いイメージだけを売り込むという不誠実(事実の誇張、不十分な説明、不利な情報の隠蔽)が含まれており、一時的にステークホルダを欺くことはできても、継続的な信頼関係を結ぶことはできません。
  2. 信頼
    社会的な学校不信を背景に伴って生じる目的が、学校とステークホルダとの「信頼」関係構築です。
    学校ステークホルダの情報欲求にきちんと応え、信頼と安心を獲得するという意味で、「日常的学校広報」が信頼関係構築に果たす役割はかなり大きいといえます。ただし、頻度・提供情報・組織的関与が限定的であったり、取り組みが不誠実であったりする場合は、十分な効果を上げることはできません。
  3. 協働
    地域運営学校や学校評価など、学校運営に対してステークホルダの積極的な参画を必要とする段階で生じる目的が、学校とステークホルダとの「協働」関係構築です。
    信頼関係だけでは、往々にして「信頼しているから全部お任せ」になってしまいがちです。これは学校とステークホルダとの間にまだ距離があるからです。より踏み込んだ参画を得るには、学校活動全体をよく説明し、(面倒な資料も)一定理解してもらう必要があります。このような「説得的・戦略的学校広報」が学校広報の最終到達点といえます。

残念ながら、学校広報は「イコール宣伝」と早合点されて、「そんなものは学校に必要ない」と反論をいただく事がままあります。Bortnerが言っているように、宣伝は学校広報のコンセプトから見ると異質なものだし、粉飾や不誠実は学校の倫理観にもなじまないので、この段階「宣伝」を強調しすぎると、必ず現場の反発を食らいます。ゆえに、学校選択制があろうとも、生徒募集があろうとも、まず、学校が手がけるべき広報は「信頼」からが正解といえそうです。


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