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@noricoco氏の「フューチャースクールの課題」を批評してみた [教育情報化のための補論]

まえがき

 まず、この記事の背景について簡単に説明しておこう。12/1 @noricoco氏が書いた「フューチャースクールの課題 」を読んで、ちょっとこれはどうかなと思うところがあり、次のようなツイートを書いた。

@stoyofuku この文章が身勝手だと感じるのは、導入したばかりの実践に難癖つけて、大げさな結論に帰結させるところ。補助輪が取れない子どもの自転車乗りをみて、自転車の社会的意義を否定するようなもの。実践者だって、いきなりこんなこと言われたらたまらないでしょう。(12/1)

 これについて、当のご本人から

@noricoco どの部分が「難癖」にあたるのか、具体的にご指摘いただけますか?
@noricoco またどの部分が「大げさな結論」なのかについても具体的にお願いします。

 と申し入れがあったというところ。自分でも刺激的な言葉を使ったという思いはあるが(それは文章を読んで本気で怒っていたから)、それでもTLに書いたのは真面目にお答えする用意があってのことで、情緒的な言いがかりを付けたいわけではない。以下、読んでどのようにお感じになるかは、読者に判断をゆだねたい。

私の立場について 

 私は研究者として教育情報化に直接関わる身だが、専門は授業外の学校広報・学校評価・学校経営に軸足があるから、授業におけるICT利活用に対しては、あくまで中立の立場(雑な研究は嫌いだが)。
 とはいいながら、フューチャースクール事業(以下FS事業と記す)の事業化や展開方法については問題が多いと感じ当初から懐疑的であった。事業案の粗さが気になり、4月の意見招請時には入札業者でもないのに意見投稿した(全部丁寧に理由をつけられて採択されなかったけどね)。それでも、当初の内容をほとんど見直すことなくゴーサインを出したのだから、この状況は始まる前から十二分に予想された事だ。

さて本題だが

 さて、かの論考を読むと、同じ場所に自分が居合わせたら、おそらく同様の点に気付いただろうし、個々の指摘内容としては妥当な点も多い。たとえば、

ICTを使った授業だから先進的でよい、ということではなく、学力の定着・応用力等にどのように結び付くかの道筋が見えなければいけない。ICTの観点ではなく、教科の観点から授業評価を行うべき。
特別な研究授業ではなく、普段の授業を見る必要がある。安易にデジタルコンテンツに児童のお守をさせていないか?(ゲーム性のあるドリルに頼っていないか?)本当に協働・協調の場面が増えているか?

 安直なICT導入事例が多いのは自分も問題だと考えている。指摘はまさにその通り。

なぜこの論考が難癖なのか

 ただし、この論考を「FS事業の課題」として読むには、いくつか重大な問題がある。批判とは、改善対応可能な相手に正しい方法で伝えて初めて効果をもつものだ。相手が対応可能でない事象を批判として述べれば、どんなに指摘内容自体が正しくても、それは「難癖」になる。
 僕がかの論考を「難癖」と書いた理由は次の4点だ。すなわち、

その1:批判対象が学校の実践者なのか、事業担当者なのか、サポートする研究者なのか、委託業者や教材開発会社なのか不明または見当違いであること

 事業の批判は責任区分を明確にすべきだ。FS事業担当者やそれを先導した企画者・研究者に怒りの矛先が向いていることは百も承知だが、全部を一緒くたに書いてしまえば、真面目な実践者なら、すべて自分の責任だと背負い込んでしまいかねない。

 たとえば、利用されたコンテンツの大半は、業者導入時にあてがわれたもので、じっくり吟味したり開発するような余裕はなかったはずだ。コンテンツに対する批判は直接はコンテンツ開発業者や、選定に当たった導入業者に向けられるべきものだが、最終的に授業教材を選定したのは実践者なのだから、何を言っても結果として実践者を責めていることになる。

 立場のある人間が書いているのだから影響は小さくない。対象を曖昧にした雑な批判は、ネガティブな意見の者を刺激するから、苦労をしている現場の実践者をより孤立させてしまう。学校側に余計な負荷をかけたくないのなら、厳に慎むべき事だ。

 対象が全く見当違いのケースもある。

これに対し、現場は「紙のほうが(学力のために)よい」という直感はあるけれども、「なぜ紙でなければならないか」の理論武装が全くできていない。そのことが、この数カ月間、現場をインタビューをしてみてよくわかった。
現場の意見は、「私たちはどのような状況であっても、その状況の中で教育をしなさいと言われれば、ベストを尽くすまで」という言葉に集約されているように思う。

 「現場からは反対には動かないだろう」に続く文脈だから、フェアでないことは承知で書くとすれば、少なくとも理論武装するのは教育現場ではない。それは他ならぬ研究者の仕事である。仮に、かの論考の趣旨がデジタルがダメで紙が良いという主張なら、筆者がまずは合理的に示すべきことではないのか?

その2:視察対象校は導入初期段階なのに、暗に完璧な実践を求めていること

 FS事業対象校は9月に機材導入完了と聞いているので、授業実施11月までの期間は短い。それでも、なんとか公開実践にこぎつけたという事だろう。記述をみる限りでは、仕様上の不具合、操作トラブルが多く、機材の特徴も十分引き出せていない様子がうかがえる。

 こういう状況で実践者に対して機材利用のメリット・デメリットを訊くとか、授業進行上の課題や指導上のミスマッチを指摘するのは、経験のない新人教諭に詰問するのと同じで、有効な知見や問題解決方策を得る方法としては不適切である。

 機材や実践のならし運転が終わった時点なら(それがこの事業で可能かといえばきわめて疑問だが)なら、機材不調に振り回される頻度は減り、PC以外の活動とのコンビネーションや協働・協調場面の設定についても自然な位置付けや工夫が生じてくるはずだ。

その3:機材投入すれば単純に効果が得られるかのごとく議論されていること

 授業のICT機材利活用議論では、機材利用に特定効果があるように論じて、一回の授業をあたかも試薬対照実験のごとく扱いたがる人は私の領域にもいるが、機材を教具・文具として扱うのが人間である以上、それはおかしな話だ。

 道具の扱いは経験に応じて熟達度が変わるし、題材によって向き不向きがあるのだから、一発勝負の単純なプレ・ポストデザインで効果を判定するのは、実験計画的には美しいかもしれないが、検証妥当性に欠ける。むしろ、機器導入フェーズに合わせて、導入前・導入初期・導入後半年~数年といったスパンで、丁寧に記録・考察を行う必要がある。

その4:事業とは無関係のコンセプトで批判していること

 これは別の研究者からも指摘があったことだが、FS事業で定義されていないコンセプトで批判されていることは問題。FS事業はデジタル教科書導入実験という位置付けではないし(それはそれで問題なんだけど)、「21世紀に必要な学力に結びつく道筋」は、情報懇では三宅委員他の提案で議論されたかもしれないが、FS事業で21世紀型スキルやOECDキーコンピテンシーが位置付けられたとは聞いていない(事業遂行上それはもっと問題なんだけど)。

 仮に、事業での定義や目標で扱われていなくても、論考の文脈で使うなら、21世紀に必要な学力とは数学分野ではこう定義する、くらいの説明をいれておかなければ、読者は何を批判しているのか具体的に理解出来ない。
 そもそも、最初のコンセプトが弱いのは事業仕分けでも散々指摘されているのだから、実践場面に関連させて批判するのは筋違いで、まずは、ずるずるのコンセプトでゴーサインを出した側を問題にすべきだ。

つぎは、「大げさな結論」について

 かの論考は一部の特徴や欠陥をとらえて仮定を多重化し、全体を否定的に論じる傾向がある。思考実験なら構わないが、結論に導くための論理構造としては問題がある。私はそれを「大げさな結論」と称した。

 実際には、運用上のバランスで是正できるようなことでも、リスクがあること自体を全否定してかかるのは、先に結論ありきの議論封じであり、建設的な議論の妨げになる。こちらは事業批判というよりは、むしろ記述展開の問題。どこが問題なのか具体的に例示しよう。

例1(コンテンツ・3)
算数ドリルに関して、デジタルと紙とどちらがよいかと子どもに尋ねたところ、「デジタルのほうがよい」との答え。理由を聞くと「書くのが面倒くさい」と「すぐに合っているかどうかがわかる」とのこと。書いたり、答え合わせをするのを面倒であることを理由としてデジタルを選ばせてよいのか疑問が残る。

 要するに「面倒である」を批判したいのだろう。書かせること答え合わせをさせることに意義がある事は自明だとして、繰り返し速算練習する意義があっても別に構わない(スキナー・プログラム学習の即時確認・積極的反応の原理と同じ)。
 ちなみに、教授者が目的に応じて課題の与え方を調整するのは当然のことであって、子どもが勝手にどちらかを選ぶという前提の話にはならない。

別の例、引用内の斜体字は私のコメント

例2(コンテンツ・4)
 電子黒板等を使った授業にどのようなメリットを感じるか、の質問に対して、「文字を読んで理解する力が年々落ちている。画像や動画を使うと、視覚に訴えるので、理解する子が増える」との説明があった。

ここまでは問題ない

 「しかし、大学の全授業がデジタルコンテンツ化するとは思えないので、生徒はどこかで『文章を読んで理解する』力をつけないといけないとが、それはどの段階で行うのか」との質問をすると、答えがなかった。

 この言い方は「大学の全授業がデジタルコンテンツ化するとは思えない」(一段)「生徒は文章を読んで理解する力をつけないとけない」(二段)つまり、仮定に仮定を重ねる二重仮定だ。実践者は説明を補うために授業で視覚教材を使う文脈で話しているのであって、もちろん、大学の教材全部が視覚化されるとか、文章読解力をどの時点で保証するか、といった仮定の話は考えているわけがない。反駁が上手な研究者ならともかく、文脈を飛躍した質問をいきなりされても困るだろう。答えられないのは当たり前だ。

 このままでは、小中においては、画像動画中心で理解させ、高校に入って突然文章で理解しなければならなくなるため、中高ギャップが深まる可能性が高い。

 論者の二重仮定を前提に、可能性が高いと言われたところで、そこに現実的妥当性はあるのだろうか。

 さらに別の例、

 デジタルを与えると、とりあえず子どもの私語が減り、大人しくなることは事実。しかし、それが学力に結びつくとは思えない。デジタルに頼ることで、教師の力量が落ちることが非常に心配。一度落ちた力量は、取り戻すのが非常に難しい。

 デジタルに頼る(一段)、力量が落ちる(二段)を前提として、「力量を取り戻すのが難しい(三段)」は二重仮定を前提とした一般論である。一般論として最後の一文が効くので、浅い読みだと、デジタルを与えると教師の力量が落ちて、取り戻すのが難しい、という風に誤解を誘う構成になっている。

 それに対して、塾や中高一貫の私学は、学力こそが依って立つ所なので、「学力が低下する」ことに対しては非常に敏感。
 たぶん、ノート指導・手作業での添削指導・長文の読解・理科の実験教室など、公立がデジタルを導入することで低下すると思われる部分をテコ入れすることで差別化を図るのではないか?
 デジタルに関しても、パパート流の教育はかえって塾などで行われるのではないかと予想する。(つまり、コンピュータで自動化が困難と思われる部分で勝負してくる。)
 そのときに、その教育費を支払える層と、そうでない層(あるいは、そのような手厚い教育機会がある都市部と、そうでない地方)との間で学力格差が広がらないかが、もっとも懸念される。

 デジタルで学力低下すると思われる(一段)、テコ入れすることで差別化を図るのではないか(二段)、学力格差が広がらないか懸念される(三段)、これも二重仮定を前提にした懸念表明である。

 一般的な論考で二重仮定を用いることは滅多にない。仮定に仮定を重ねると文脈理解が難しくなるうえに、導かれた論が不安定になるからだ。かの論考の場合は、結論にあたる一文に、教師の力量回復困難・中高ギャップ・学力格差といった分かり易い一般論を持ってくるところが、もっともらしさを獲得するレトリックのようだが、読まされた方は狐につままれたような妙な気分になるだろう。

最後に

 私は著者ご本人とも話したことがあるけれども、ICTに対する考え方は、別に正反対ではなく、共感できる部分も多いと思っている(僕は仮想敵じゃないからねということ)。たとえば、

  • ICT導入や授業利活用のプロセスが雑で、ICT導入という手段自体が目的化していること
  • ICTの観点でなく、教科の視点から授業評価を行うべきということ

 途中にも書いたが、ICT導入・利活用は「とりあえず入れて使ってみた」レベルで止まっているケースが多く、世界的に見ても、これが日本の教育情報化を遅延させる理由の一つになっている。
  導入から利活用へのステップで生じる課題やサポートの問題を合理的に解決できていれば、学校側の対ICT不信はもう少しマシなものになっていたのではないかと想像する。それが出来ていないのは、我々教育工学領域研究の力不足だ。

 ただ、私の考えをはっきり主張しておくとすれば、従前の教科教育の枠組みを所与条件として、ICTを従(手段)に置く組み立てはもうやめた方がいい。ATCsの21世紀型スキルやOECDのキー・コンピテンシーなど情報社会を前提とした新しい教育観が提示されているなか、教科領域がICTを門前払いする体制を続けていたのでは、世界的な教育観転換のトレンドからの乖離は、より深刻なものになってしまう。
  ICTはすでに我々の多くの知的生産・知的活動の基盤になっていることを考えれば、まず、ICTによる知的活動基盤を前提とし、そこから導かれる能力拡張の可能性を探るべきだ。

 抽象的な話で恐縮だが、これまでの教科教育の価値を仮に100とするなら、知的活動基盤を前提とした教科教育の価値を150にするには、何をすべきか。提示デバイスや反復練習ドリルといった単純で分かり易い使い方以外に、教育品質としても高度で、かつ融合的な方法はないのか。筆者の言う「パパート流の教育」をはじめとして、この20年で日本から失われてしまったICTの教育適用可能性を、そろそろ、もう一度掘り起こして再構築・統合する必要性を感じるのである。

 新しい価値観を融合した教育像を模索するにあたって、教科領域が最初から否定結論ありきの議論封じを続けていたのでは、いつまでも先に進めない。これは以前筆者にお会いした時にも明確に伝えたはずが、教科領域から議論接点になる「のりしろ」を提案しあうことで、前向きに議論を進められないだろうか。

 これは教育工学の研究者としてだけでなく、教育の将来を考える者の一人として切に願うことだ。


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