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学力テストの結果公開は学校教育の改善につながるか? [コラム]

文部科学省が今年4月に実施した「全国学力・学習状況調査」(全国学力テスト)の市町村別成績について、大阪府知事は府内35市町村について自治体名とともに分野別平均正答率の開示に踏み切った。当初、大阪府教育委員会は知事の意向に反対して「クソ教育委員会」呼ばわりされ、文部科学省は結果公開をしないよう要請するといった、実に奇妙な状況となったのは周知の通りである。一連の事件的報道の扱いは、橋下府知事お得意のメディア・アピールとみる向きもあるが、教育界では突如巻き起こった(あるいは起こるべくして起こった)騒動がこの後どのような影響を与えるのか、各方面で様々な憶測をよんでおり、いずれにせよ、これからも議論百出であることは間違いない。
なにより、この事案は非常にセンセーショナルで興味深いものだが、教育研究の立場からみれば、マスメディアが好む単純な論調とは違った背景を考えざるを得ない。本稿では、雑駁ながらその一端を考察することにしたい。

まず考えたいのは、学力テストの結果公表に関して、大阪府知事の姿勢は評価できるか、という問いである。結果公表に踏み切った自治体首長としては、当然ながらこれを評価する意見が多い。
国が統一的に学力把握を行うための試験を実施し、結果公表を前提にして施策展開をすることは、結果の如何を問わず、昨今のトレンドになりつつあるし、行政機関のアカウンタビリティを前提に考えれば、巨額の税金を投じた結果について、納税者が知る権利があるという主張には一定の説得力がある。

ただし、大阪府知事や自治体首長の意見を100%真に受けるのは少々危険だ。首長意見の背景には、自治体首長+本庁部局VS文部科学省+教育委員会(事務局)という対立構造があるからである。
戦後日本の教育委員会は、米国公教育制度をモデルとして成立したが、教育の公共性と持続性を担保するために、行政機構上は外局として置かれている。教育行政の意思決定は教育長と教育委員で構成される、文字通りの教育委員会によってなされるため、自治体首長の意向がただちに及ぶことはない。しかしながら、日本の教育委員会は独立した徴税権を持たないため、予算を自治体側に依存するという中途半端な構造になっている。
さらに、数多くの自治体教育委員がなかば名誉職化することで、意思決定機関としては形骸化し、実質的には文部科学省の強い指導と教育委員会事務局(我々が普段教育委員会と呼んでいる実体は、事務局を指していることがほとんどである)によって運営されていると考えてよい。
自治体首長+本庁部局の立場としては、予算をむしり取られる上に、首長の意向が及ばないことはストレスであろう。したがって、一連の報道における首長意見が、しばしば鬼の首を取ったような言い方に聞こえるのは、今回の事案そのものが行政機構上独立している相手を結果的にねじ伏せたことになるからに相違ない。子育て世代の一大関心事である教育について、自治体首長が身を乗り出してドラスティックな改革を行うことは、最も効率の良い政策アピールであり、有効な選挙対策でもある。だが、教育委員会が外局として置かれた本来の意図を考えれば、首長が交代するたびに教育施策が二転三転したのでは、長期的にみて良い結果をもたらすとは考えにくい。持続性が担保できるような慎重かつ精緻な施策立案が求められるだろう。

次に考えたいのは、学力テストの結果公表を行うことが、学校教育にプラスの作用をもたらすか?という問いである。大雑把にいえば、自治体のランキングや点数差が明らかになることで、各自治体教育委員会の対応対策を刺激するから良いという意見と、競争意識を煽り過ぎると教育の本質を見失うから良くないという意見がある。どちらも、公表値を自治体の「学校教育サービス水準」の代表値とみなして尻叩き(コントロール)の材料にするという話では、同じレベルの議論である。

だが、ここで勘違いしてはいけない。学力テストの結果は、「学校教育サービス水準」を表現する数値としては妥当でないからである。教育行政の研究者が指摘するように、子ども達の学力には保護者の経済状態をはじめとした要因が大きく影響する。[テスト結果=子どもの能力+保護者等周辺要因+学校教育指導]と見るべきで、学校の指導方法いかんに関わらず、子ども達のポテンシャルや親の経済状態が良ければ、必然的にテスト結果の数値は高くなる。
つまり、テスト結果に表われるのは、全ての要素を加算した自治体の総合力であるから、点数が低いからといって、一方的に教育委員会や学校を責めるのは間違いであるし、逆に点数が高いからといって、学校で優れた指導が行われている根拠とはならない。こんなアバウトな数字が役に立つのは、せいぜい不動産業者か、その地域への引っ越しを考えている人ぐらいである。
たとえば、教育指導では改善できない課題(たとえば居住者の所得層など)を抱える学校は、最初から不利な条件を与えられるわけで、結果点数のみを根拠にするような乱暴な行政指導が行われれば、かえって教職員の動機付けを削いでしまったり、数十年前の学力テストで発覚したような不正(成績の悪い生徒を試験当日休ませたり、出題類似問題ばかりを繰り返し予習させたりといった事態が生じた)や目先の点数向上策が横行するだろう。
したがって、学力テストの結果公表は、それだけでは学校教育にプラスの影響を与えるとは考えにくく、むしろ、数字が一人歩きをすることで弊害の方が大きくなる懸念がある。

しかしながら、先ほど述べたように、国が統一的に学力把握を行うための試験を実施し、結果公表を前提にして施策展開をすることは、結果の如何を問わず、昨今のトレンドである。これはどういうことだろうか?
たとえば、英国のケースでは学力テストの結果公表は国民の一大関心事であり、地域学校のテスト成績はリーグスコアとしてBBC他で大々的に報道される。だが、社会一般の関心レベルとは別に、学校教育分野ではテスト結果以外の学校情報を統合化、分析し、これを学校改善に積極的に活かそうとする機構が機能している。
米国の場合は、もともとローカル教育委員会の独立性が高かったが、NCLB(No Child Left Behind)法が施行されたことで、州政府や連邦教育省の関与が強まり、学力テストの結果が州・連邦からの補助金額にフィードバックされるような仕掛けが作られた。

これら英国・米国の教育政策の基本に位置付けられるのがDDM(Data Driven Management)の考え方である。DDMとは、業務上で生じる様々な粗データを逐次蓄積、分析することで、経営に役立てることを指す。実は、企業経営の領域でこのような考え方は戦略情報システム、あるいは、ERP(Enterprise Resource Planning)として10年以上前から紹介されており、すでに数多くの適用事例を持っているように、この言葉自体は目を惹くような新しい概念ではない。
ただし、情報化が著しく遅延している我が国の学校教育にとって、DDMは特別な重みをもつ言葉になりつつある。かつて、ハードウェアメーカーがこれらのキーワードを売り文句にして、PC機材・ネットワーク・アプリケーションサービスをソリューションとして企業に売り込んだように、DDMを実質的に駆動させるには、業務のシステム化や統合化が欠かせないからである。

簡単な例をあげよう。最近海外の視察で学校レベルの取組みとしてよく出会うのは、出席の制御(attendance control)である。一般に、出席率を高めることは、学校のモラルと児童生徒の動機付けにプラスの影響を与えるが、同時に出欠データは、彼らの状況をダイレクトに反映するバロメータであり、様々な問題の予兆が表われやすいと言われている。
出欠をアップトゥデートで把握するために、台湾台北の高等学校では、非接触型カード(RFID)リーダーを昇降口に設置し、登下校状況を登録させている。英国のある中学校では登校門限時間が過ぎると、自動的に事前申告のない欠席者がまとめられ、オートコール機能で保護者宅に連絡される仕掛けが採用されている。あるいは、米国の某自治体では、出欠データは校務システムを通じて集計され、学校管理者のマネジメント画面に表示されるとともに、隔週で開催される校長会で報告され、学校経営の改善に役立てられるといった具合である。
我が国の場合、担任や教科担当教員は個別児童生徒の状況を当然エピソードとして記憶しており細かな対応を行うが、出欠のデータは紙帳簿で管理されるので、転記・集計作業に手間がかかるうえ、設置者(教育委員会)への報告は年に1度しか行われない。このような状態では、もし出欠状況に変化が現れても、学校管理者が細かな対応を行うことは困難である。なにしろ、問題が発覚した頃には、当の児童生徒は卒業しているか、学年が変わっているのだから。

(学力テストの結果を含む)データを教育指導に適切にフィードバックするには、①教育活動全般の意味のあるデータをできるだけ網羅的かつ正確に収集・蓄積し、②これらの因果関係を解明するとともに、③必要な時期に必要な対策を施すことが重要である。
①のデータ収集を行うには、全教職員が日常的に校務情報システムを利用することが前提となるし、②の因果関係の解析は、各学校の膨大なデータを集約統合するためのフレームワークと、多変量解析等の統計的手法を適用するためのノウハウが必要である。これらが整わないと③の必要な時期に対策を施すことはできない。
我が国の学校教育における情報化は、授業領域ではそこそこ世界的なレベルにキャッチアップしているが、校務領域は2006年に取組みがはじまったばかりであり、英米に比べて15年以上遅れている。実質的なDDMを立ち上げ機能させるには、さらに5年から10年を要するだろう。

したがって、本稿の結論らしきものをまとめるとすれば、次の通りになる。

  1. 学力テストの結果公表に関する一連の報道や議論は、結果を根拠として行政的フィードバックを行う姿勢を明らかにするというレベルでは意義がある。
  2. ただし、学校教育の実質的改善に役立てるためのバロメータとしては妥当でなく、むしろ数字が一人歩きする懸念の方が大きい。
  3. データを根拠として学校改善を行う(DDM)には、意味あるデータの蓄積・分析・フィードバックを行うシステムが必要であるが、日本はこの領域の情報化が著しく遅れている。

一連の騒動が表面的なものに終始して、単に学校教育を疲弊させて終わるなら、大阪府知事の提案は、数年後には失策と呼ばれるだろう。問題は、実質的対策を行うための環境整備とノウハウ蓄積をどうするか、ということに尽きるのである。意地悪な言い方かもしれないが、筆者としては「あのときの騒動は、実はDDMへ向かうためのパンドラの筺であった」と言われるような、次の一手を期待したい。


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